「100年の挑戦(美味)」 美味です。
今回は前回記事の続きとなります。
本当は序破急の三部構成にしようかと思いましたが、今回記事でまとめたため長めの記事となっています。
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[ヤフーポイントを募金する] [楽天ポイントを募金する][災害ストレスに負けない方法] [震災後に考えるべき心のケア]先週発表された新台は以下となります。
<パチスロ>
○
パチスロエイリヤンビギンズ【サミー】
○
大逆転【ウィンネット】
○
竜馬翔ける【岡崎産業】
○
蝶々乱舞【平和】
○
ハネスロ林家一家【オーイズミ】
<ぱちんこ>
○パチンコ
CR戦
国乱舞 紺碧の双刃【サミー】
○
CR江頭2:50【豊丸】
○
CR弥次喜多外伝【奥村】
○
CR八丁堀の七人【藤商事】
○戦国乙女2【平和】
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前回の続きです。
前回記事は→
【天の釘 序】【注:ぱちんこやパチスロを合わせてパチンコと表記して書きます】
「天の釘」は副題が「現代パチンコをつくった男 正村竹一」としているだけに、正村竹一の人生の伝記となっている。
ただ、この本の存在理由として根本となる事が「大衆の娯楽として、文化として、産業として発展してきたパチンコに対する歴史がほとんど記録として残っていない」という点が筆者のスタート点となっている。
巨大産業として成り立っているのにも関わらず、伝聞や噂などではっきりとした事実がほとんど記されていないパチンコ産業創世記に対しての疑問、そしてルーツを求めて、その中心人物として君臨していたパチンコ王・パチンコの神様と言われた正村竹一の生涯を記録しつつもパチンコ産業の歴史を記している非常に内容のある書物となっている。
今は当たり前のようにホールにある循環機や台の裏構造、オート発射装置(ハンドル)、台の生産のオートメーション化、チューリップの誕生など、誕生した瞬間がつぶさに書き記されている。
その中でも、正村竹一について驚くべき点が、ゲージについては有名だがそれ以外の点で、ホルコンや三点方式の元祖としても存在していた事だった。
まさむらの機械は、全て手作業で一本一本打たれた釘で生産されていた。
スランプが生まれるような釘の打ち方、それは釘の素材や打ち方の角度・深さなど全てを含めた正村ゲージだけでなく、調整も正村竹一自身が導入されたホールに出向いて調整していた。
もちろん、導入されたホール数が増えれば増えるほど一人で見回るのは不可能なため、自分が認めたもの達(家族や弟子達)が担っている。
さらに、ホールにも出玉の管理を徹底させてOUT玉とIN玉を計測させ、そのデータを下に次の日などの調整を決定させるような指示をしていた。
また、三点方式が生まれたとされる大阪よりも2年以上前に、自分のひいきにしている菓子屋などと4点方式で換金行為を違法行為にならないような方式で行っていた。
この時代は、景品の買い取りに暴力団が関わっていた事に対する手段であり、未来を考えた結果、この形式を変えなくては未来がないという決断で行い、それによって暴力団とのいざこざも受け持っていた。
それらすべては遊技者のために。 未来のパチンコのために。
この点について徹底して、情熱をもってパチンコと向き合った人間。 それが正村竹一だった。
そして、その情熱は企業としてもぐんぐんと成長を続け、「まさむら」の会社は巨大企業となる。
しかし、成長はある時強制的に止まらざるを得ない事態となった。
それが、今の人でもとてもなじみが深い出来事、「出玉規制」が行われたためである。
ここ5年で打ち始めた人でも聞いたことがある、適度な射幸心を超えた遊技性に対する規制。
その時は昭和30年。 連発式パチンコに対する規制だった。
連発式禁止に対する緩和の陳情を組合は発表したが、それも聞き入れられずに業界は衰退の一途をたどった。
ホールの数は最盛期の1/5にまで減少し、メーカーも8,9割が壊滅的な打撃を受けている。
これが現代に起きたら・・・
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しかし、この当時は今とは世の中の動きが違い、不幸中の幸いか、ちょうど高度経済成長期の始まりの年だった。
パチ業界から離れても、他の企業は絶好調となり、今ほど再就職が困難な状況ではなかったのではないだろうか。
そして、この時に在日系の人たちの業界に属する割合が一気に増加する。
人数としてはそれほど変わらなかったのかもしれないが、日本人は不況の業界に残るよりも他の業界に移ることが出来たが、在日系の人たちは簡単にそうするわけにもいかず、必死にパチンコ業界に残る手段を模索し、苦労の末に復活を果たした。
その苦労が報われ、後に2代目3代目が今も業界に残り、全体として在日系の人たちの比率が上がったという訳となる。
今までただ単純に日本人以外が多い業界とは認識していたが、その背景までを気にした事はなかった。
栄枯盛衰の背景に在日系の人達の力は非常に大きく作用していた。
ここまで読んで、なぜ今まさむらがメーカーとして残っていないのかという疑問をもつ。
連発式の不況によっても、完全に機械生産をやめたわけではなく、工場7つの内6つを閉めて本社工場のみとしているので、引き続き生産は行っている。
この時、報道では「パチンコ王の没落」というような風評で報じていたらしいが、実際はそうではなく今まで通り正村竹一自身が現場で働き、復調のために働いていた。
決していつの時代も世間の味方ではなく、嫌われる存在だったパチンコ業界の象徴とも言える存在を、より話題になる方法で報道するであろう。
それは今でも変わらない体質なのかもしれない・・・
そしてこの先の業界は、チューリップの登場で復調の兆しが見え、ホールの循環玉システム、機械製作のオートメーション化、フィーバー機の登場を経て今の繁栄へと繋がるのだが、時代の変化を正村竹一は、変わらずに人力の釘打ちで人と機械の戦いを演出し続けた。
しかし、時代の変化を察知してか、機械作りからは手を引く。
台製作は機械で大量に生産する方式が確立された時だった。
未来を見据え、自分のやれる場所はやりきったという感じなのかもしれない。
そして機械生産ではなく、「まさむら」はホール経営へとシフトした。
戦後、パチンコ台一期黄金時代を作り上げた正村ゲージとその製作者の正村竹一。
それは時代の後押しもあり、繁栄をし、本物としての証拠は今パチンコを打っても感じる事が出来る。
当人は、決して利益のみを求めていただけではなく、パチンコに対する情熱から繁栄を極めた。
それは、ただ「打って出ればいい」という単純な遊技ではなく、「台VS遊技者」「ホールVS遊技者」という楽しみを踏まえた上での遊技性をもとめたがための結果となった。
一台一台を手打ちで製作していた正村が、機械の大量生産に時代が変わったときに機械製作をやめたのはそういった背景からであろうか。
そして今、パチンコの遊技性はこの頃の時代とは大幅に変わっている。
ホールの一律調整は、「ホールVS遊技者」の構図をなくす。
今の震災後と戦後を比較する人がいるが、それは間違っている。
戦後は日本全土が同じ状況だったからだ。
浜松原発の停止とともに、東日本だけでなく中部以西でも輪番営業が行われるかもしれない。
しかし、それは逆にチャンスとなる。
原点回帰を全国一致のテーマとし、業界全体で協力して今を見直す機会である。
『パチンコが子供の遊びから大人の娯楽へと進化する過程において、家族以外に試験打ちまでさせてもらった生き証人の一人が、当時子供から大人への成長期にさしかかる16才の少年だったということは非常に興味深い。』
これは、正村ゲージ手動式オール10が作られた時の模様を記した一文である。
どういった背景で、どういった考えで正村竹一がこの子に打たせていたのかは書かれていないが、とても意味深な行動と捉えた。
本当に熱中できるものというのは、大人も子供も関係なく「面白い」と思わせなければならないのかもしれない。
それが今のパチンコに一番足りない部分なのかもしれない。
ただ見た目で、何もかもわからせる事が「面白い」と感じさせる事ではない。
表層だけを求めた物が作られている。それが寂しい。
携わる人間が増えたからこそ、それぞれの作り手の情熱も希薄となってしまっているのが実情ではないだろうか。
もっと純粋に没頭して作りこまなければならないし、そういった企業体系を求めなければならない。
過去や名誉にしがみつかず、必要であれば引く勇気。 新しい世代に引き継ぐ決断。
何もかもが足らない。 そんな気がする。 もちろん自分自身にも。
本当に、この本を出会う事が出来てよかった。
そう言える日に向かって進む。
ー了ー

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